なつブログ

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「哀しき怪物」は救うべきか? スパイダーマンNWH

半年ぶりです。なつです。

今回は主に今年の年明けに公開されたスパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム(以下NWH)についてネタバレを挟みながら語りつつ、タイトルの問いについて語っていきます。

あまりポジティブなレビューにはならないので予めご了承を。

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今回主に扱うのは以下のテーマ。

1.そもそもMCUスパイダーマンとは何なのか

2.今作のピーターの「失敗」について

3.「哀しき怪物」をどう扱うべきか

ざっとこんな感じです。

 

1.そもそもMCUスパイダーマンとは何なのか

 

 この記事の大前提として私はコミックの愛読者というわけでなく、知識は映画シリーズのみにとどまっていることも予めご了承ください。

 

 一つ目のテーマですが、まずはMCUスパイダーマンがシリーズを通して他の映画シリーズとどう違ったかを語っていきます。他の映画シリーズとはサム・ライミ版、アメイジングスパイダーマン、スパイダーバースの3シリーズについてですね。(現時点ではスパイダーバースは単独作品ですが続編が決まっています)

 これら3シリーズはそれぞれ設定が違っていても基本的に「スパイダーマン」というヒーローを構成する要素は同じです。特にスパイダーバースでは様々な設定を持ったあきらかに質感から違う複数のスパイダーマンが登場しますが、それでも彼らには必ず共通している要素があり、寧ろそれらの要素こそがスパイダーマンスパイダーマン足らしめていると強調しています。

 それらの要素とは「大切な人を喪った過去がヒーローとしての起源であること」「自らの力と普通の生活の狭間で苦悩する等身大の人間であること」が主に挙げられます。前者は基本的にはベンおじさんを自らのせいで喪ったことと、彼が遺した「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉が彼の根底に残り続けるということ。後者に関しては正体を隠しているが故に中々周囲に理解もされず、時には孤独を感じながらも責任を投げ出さずに運命を受け入れて戦い続けるということ。

 後者に関して少し余談になるかもしれませんが、スパイダーバース作中で

 

「人生には選ぶ時が来る」
「選ぶ自由があるの?」
「今はない」
という父とマイルズの会話

 

「嫌だ、(スパイダーマンに)なりたくない」
「選択の余地はない」


というマイルズとピーターの会話が挟まれており、「避けられない運命に翻弄されること」がスパイダーマンのメインテーマの一つであることが色濃く現れています。より正確には運命に翻弄されながらも、自分の意志で「選んで」ヒーローになることが彼らが必ず辿る道であると言えます。

 これを更に補足するシーンがアメイジングスパイダーマンのエンドロール手前で教師が「全ての物語のテーマは常に一つ。「自分が何者か」というものだけ」と語るシーン。正にこれはスパイダーマン映画全作品に共通するテーマです。自分が「ピーター・パーカー」なのか、「スパイダーマン」なのか。思い悩みながら、それでも彼らは戦い続ける。

 

 で、長々語ってきた、これら3シリーズが共有しているコンセプトに対してMCUはどうかと言うと、かなり毛色が違います。

 そもそもMCUではベンおじさんが登場しません。ジョン・ワッツ監督によれば存在はしていたようですが、

 

「僕は(スパイダーマンの)起源を描くつもりはないので、あまり詳細を明らかにしたくはなかったんです。(中略)大事なことは今までに見たことがないスパイダーマンを見せることであって、その起源を語ることではなかったんですよ。」

 

引用元 https://cinema-tronix.com/does-mcu-spider-man-have-an-uncle-ben/

 

とのことです。(このインタビューはFFH公開時のもの)

 で、ベンおじさんがいないということはつまり、上記の監督のセリフの通り今回のピーターにはオリジンが存在しません。その結果このシリーズにおける「スパイダーマン」というヒーロー像がどうなったかというと、ただの「等身大の少年がヒーロー」という程度の枠に収まってしまっています。

 更に言えば今作のスパイダーマンは市民の親愛なる隣人としての側面も非常に薄いものになっています。ですので、従来の実写シリーズで見られた市民の協力や援助といった展開は皆無に近いです。

 

 前置きが非常に長くなって申し訳ないですが、このMCUスパイダーマンが抱えていた従来のシリーズとの違いこそが以下に続くテーマに非常に大きく影響してくるわけです。

 

2.今作のピーターの「失敗」について

 

 上記のMCUスパイダーマンの特異性を踏まえて改めて今作の展開について整理します。

 前作FFHのラストでピーターはミステリオにより全世界に正体を知られ、結果ピーターと彼の周囲の人々の人生は大きく歪められてしまいます。要は主な原因はミステリオの悪意にあるにせよ、間接的にですがスパイダーマンであること、その力がピーターを苦しめます。

 ここに至り、ピーターはストレンジを頼り、ストレンジも反対を受けながらも共に戦った仲ということで、世界からピーターに関する記憶を消去する魔術を行使しますが、行き当たりばったりで始めたこの魔術が大失敗。そして各世界から歴代スパイダーマンヴィランを呼び寄せてしまうわけです。

 その後、自分のせいでこの世界に呼び寄せてしまい、本来の世界に戻れば死んでしまう彼らを救う術はないかとピーターが奔走。そしてその過程でグリーンゴブリンの手にかかりメイ叔母さんが死亡。この一連のくだりで今シリーズにおいて初めて「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉が現れます。

 

 もうみなさんお察しかと思いますが、今作のシリーズにおける役割は恐らく「スパイダーマンのオリジン」を描くこと。別の二人のスパイダーマンが登場することもあって、改めて彼らと共通するスパイダーマンの宿命をピーターに背負わせようということでしょう。

 そしてこの展開についていくつか不満な点を挙げていこうと思います。

 最初にピーターとストレンジ、この二人のヒーローが犯してしまった大失態。後に続く展開から、この失態こそがこれまでのシリーズにおける「ベンおじさんの死に繋がるピーターの傲慢な振る舞い」と同じ役割を果たしていると考えられます。使うべき時に使わなかったことと、無計画に特別な力を行使してしまったことという点では対照的ですが。

 まずこれについて言いたいことは「今作が初登場ならまだしも、仮にも数作品に渡ってヒーローやってきた男達が揃って何を無責任なことをやっているんだ?」という話です。勿論、あのまま放置すればMJやネッドの人生はメチャクチャになっていたことでしょうし、できるなら何とかしてあげたい。けれど、その為にスーパーパワーを行使する、それも無計画に行ってしまったという無責任さはヒーローとして非難されるべき事態です。(まぁ、悪い意味でアメコミヒーロー的かなとは思いますが。ストレンジの性格的にもなくはない失態とは言え、流石にもう少し責任感を身につけていて欲しかった)

 

 で、次はもっと根本的な話になりますが

 

「お前ら今更それやんの?」

 

という話です。

 そもそも初登場からオリジンの話を「敢えて」しなかったんですよね?

ヒーローにとってその始まりとは「何故傷ついてまで人を救うのか?」「この主人公はどのような人物なのか」という部分を強い共感や理解を持たせて描くことで、彼らの姿に憧れや応援の気持ちを寄せさせる重要な要素です。言わばヒーローの本質はそのオリジンに表れているわけです。

 それを「敢えて」カットしたんですよね?

それでもスパイダーマンを魅力的に描ける自信があったんですよね?

 

「それを今更やるんですか?」

という話です。しかもこのタイミングで今更初歩的な大失敗をしてしまうことで、「じゃあこれまでの彼は何だったの?」という気持ちになります。

 無責任に、無計画に力を使ってはならない。その程度のことはヒーローとして活動を続けているなら、当然嫌というほど身を以て知っているはずのこと。

 正直、ここに関しては物凄く拍子抜けでした。まさかメイ叔母さんが死ぬとは思ってませんでしたが、死んだ時は驚くと共に「え?今更こんな展開を二作も映画をやったキャラでやるの?そこまでしなきゃピーターはヒーローとしての精神的成長ができないの?」とガッカリしました。(主に自分の過失が原因で)取りこぼした命という展開を既に何度か危機を救っているヒーローでやるのはあまりにも愚策かなという印象を受けます。

 

3.「哀しき怪物」をどう扱うべきか

 では、最後に扱うのが本題。メイ叔母さんの間接的な死因でもある「哀しき怪物」を救おうとする行為についてです。

 今作でピーターは別の世界から来たヴィランたちを救おうとします。それは元の世界に帰れば死ぬことが確定している彼らを、そうと知りながら見殺しにはできないという気持ちからです。確かにその判断や裁量は一人の人間、増して等身大の青年であるピーターには重すぎます。

 とはいえ、「大いなる責任」とはまた違う話かもしれませんが、それでもその決断を下せるのはピーターだけ。再びこの世界に放つリスクは当然考えてしかるべきです。少なくとも、怪物としての特異な状態が解除されるまでは肉体的自由を拘束するのは当然の処置と言えます。それすらせずに、結果グリーンゴブリンにしてやられて人命を失っているというのはストーリーラインとしても少々お粗末です。

 

 そして何より大事なことは「哀しき怪物」はあくまで「怪物」。どのような経緯であれ、一度悪事を犯したならば「怪物」です。罪のない「人間」より優先される「怪物」の命などこの世にありません。それは僕らが人間で、ヒーローが「罪なき人々の味方」という定義である以上決して変わりません。

 哀しき怪物を救うなという話ではありません。救おうとするならば「100%確実な解決手段がある」状態で、その上結果論にはなりますが必ず全ての命を「救った」という結果が必要だという話です。それが責任の取り方です。

 例え一匹の「怪物」を一人の「人間」に戻せたとて、そこに罪のない人の犠牲が伴えばその時点でその物語は価値を失います。

 罪なき人々と哀しき怪物を比べた時、絶対にその優先順位だけは間違えてはダメなんです。

 

 この辺りの倫理観、線引きについては昨今の作品でも多少連想されるものがありました。以下、該当作品のネタバレがあるのでご注意を。

 

ジュラシック・ワールド 炎の王国

(原題:Jurassic World Fallen Kingdom )

 この作品のラストシーンではクローン技術で生み出された少女が自分と同じくクローン技術によって生み出された恐竜たち、その命を見殺しにできず世に放ってしまいます。そして原題通りに人間の「王国」を失墜させるのです。その決断の是非や、その場面を説得力があるものとして描けているかはこの際置いておきます。

 この作品はこのシーンで「人のエゴによって生み出された怪物を人に裁く権利があるのか」というテーマを投げかけたかったのだと思います。が、私に言わせれば考えるまでもないことです。「人の命より優先されるものなどない」、これに尽きます。

 

「全ての命は平等だ」

それは事実でしょう。

「人は罪を犯す愚かな生き物だ」

それも事実ではあるのでしょう。

 

でもだからと言って

「人の罪が生み出した哀しき怪物は罪なき人々に害を成すとしても救います」

とはなりません。絶対に。人々の命を脅かす可能性と天秤にかけて、どこかで線引きをしなければならないのです。

 私がそう考えるのは、これらの作品を見ている私は「人間」だから。それ以上の理由は要りません。この作品の場合NWHと違って人間とは違う、彼らもまた罪のない生き物なので、少し話が変わってくるでしょうが、それでも結論だけは同じです。確かに彼らの命を奪うことが「正しい」決断だとは言えません。特に今作の場合、禁忌を犯したのは人間で生み出された恐竜ではありません。しかしそれでも、どうしても私はこの作品に共感を覚えることも、倫理観を揺さぶられることもありませんでした。

 人間が生物である以上自らや、種全体に害を及ぼす決断など肯定してはならない。人間がそこに生きることを否定してはならない。私はそう考えているからです。

 

 また、上記のジュラシック・ワールドとはまた別の話になりますが、この線引きに関して私が特に共感を覚えたのが、皆さんご存知、鬼滅の刃

 鬼滅の刃に登場する鬼たちの多くは生前に悲劇的な過去を経て鬼へと変貌しています。しかし作中で彼らの過去に主人公の炭治郎が同情を寄せることはあれど、決してその罪を赦すことはありませんでした。

 11巻の最後に収録されている「何度生まれ変わっても」などが特にわかりやすいと思います。どれほど悲劇的な過去があろうと、そこに同情の余地があろうと犯した罪、ないし人々を危険に晒す可能性は決して赦されず看過できるものではないのです。

 

 さて、長くなってしまいましたが総括です。話をスパイダーマンNWHに戻すと、この作品の過ちはいくつかありましたが、最大の過ちはやはり「哀しき怪物を救う為に罪なき人が犠牲になった」こと。

 そしてタイトルの問いに対する答えは「必ず救える方法がないのならば、全ての命に責任が取れないのならば救おうとしてはならない」そして「救おうとしたならば必ず犠牲なしに救わねばならない」というものです。

 

 では、今回はここまで。お疲れ様です。ご高覧ありがとうございました!